ふくろうの鳴く声がする
「それがふくろうの声であることは知っていた。」
でも、
この「知っていた」は、本当に知っているんだろうか?
知っているようなつもりになっていたけれど、
実際に鳴き声を聴いた経験があって初めて、
本当の「知」になるんじゃないだろうか。
ほんとうに知っているということは、
経験に基づく「知」を持っているということだ。
どうも、知るっていうことの本質が、
あいまいになっているような気がする。
それは、日常のささいなことはもちろん、
仕事のうえでも、社会的なことでも。
パソコンがあれば、
ライブカメラでいつでも山の風景が見られるけれど、
実際に行って、目の当たりのする山は、
画面で眺めた山とは別のものだ。
キーボードがあれば、
管楽器の音も、弦楽器の音も、打楽器の音もだせるけれど、
本物の管楽器や弦楽器や打楽器の音とは、
響きも旋律も別のものだ。
でも、
画面の山を眺めては、山を知った気分になり、
キーボードの音を聴いては、音を知った気分になる。
人に伝えるためには、本当の「知」が必要だ。
メディアから提供された一方的な情報や、
バーチャルな体験をポケットに入れただけで、
あたかも知っているような顔をして、人に伝えている。
ポケットに入っている情報は、ご近所ゴシップみたいなもので、
おばちゃんたちの井戸端会議で花開く、噂話に似ている。
それが真実だとしても、本当の「知」はそこにはない。
あるのは、薄っぺらい「知」だけだ。
本当の「知」が欲しい。
それが、もっとも豊かなことだと思うから。
経験することは、豊かなこと。
もっと経験しよう。
新しい体験をしよう。
ママも、ちゃむもね。
| 固定リンク
コメント
福島の人は、それが当たり前になってるがゆえに
自分の住む土地の豊かさに気づいていない人が多いです。
この自然の恵みと人情に感謝しつつ
関東ではできない自然の豊かさを
子供たちに伝えないとと、常に考えています。
「知ったかぶりではいけない」
ライターとして、常に自分に問うていることです。
遅々たる歩みでも、忘れないようにと、常に。
投稿: take | 2008.03.31 19:14
確かに、近すぎて見えないことって多いかも。
見る努力が、新しい「知」につながりますよね。
ネットの世界は特に、薄い情報が氾濫しすぎてて、
そんな世界になっちゃってる一因を作ってるのは、
じぶんたちだよなぁ、と思ったりもしたのでした。
投稿: あたし | 2008.04.01 09:01