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二次障害を防ぐ

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円覚寺 黄梅院の前に、こんな詩があった。


迷うな迷うなと。

つい迷っちゃう。
ほんとにこれでいいんだろうか、って。

でも、
迷えば迷うだけ、核心から遠のくでしょ。

迷えば迷うだけ、
タイミングもチャンスも逃しちゃうでしょ。

迷う時間がムダなわけです。


神奈川県内の肢体不自由児学校PTA連合の研修会で、
二次障害についての講演を聞いてきた。

内容をめちゃめちゃ端折ると、

必要なのは、今ある機能の維持で、
がんばりすぎない程度にバランスよく予防を心がける、です。

もちろん、肢体不自由児が10人いれば、
10人それぞれの状況はまったく違うんだけど、

どうも話のなかで、
障害の程度が行ったり来たりしてる感もあり。

この手の話は、ターゲットしぼりこまないとブレる。
うーん、まぁいいや。


ちゃむに関して言うなら、筋緊張面などなどを考えても、
それほど該当することがないのだけれど、

5月の整形外科受診で側わんの疑いアリだったので、
まぁゼロではない。

なんとも微妙。

だからって、
現状維持にシフトされると困るんだけど^^;


こういう話を聞いてるとさ、
立って欲しい、歩いて欲しい、っていう希望に対して、

かなり否定なのよね。

否定してるわけじゃない、とか必ず言うけど、
基本的に否定なのよ。

親の過度な希望で、子どもが苦しんでる、みたいな、
そういうケースを必ず持ち出すよね。


でもさ、
過度の希望をもって、背中押せるのって、

親だけなのよ。

可能性っていうのは、
過度の希望と、ちっちゃな努力からも生まれるでしょ。


たとえ、40歳、50歳になったときに、
こんなはずじゃなかった現実があっても、

それがすべての結果じゃないでしょ。

その段階で、
さらに過度の希望を持ったっていいのです。


だって人間てさ、学び続ける生き物でしょ。
学ばないと、進化しないでしょ。

学ぶのやめたら、終わりなのよ。
あたし的には。


なんかさ、
がんばらない、を美化しすぎ。


迷わずに、
立てや、歩めや、背中を押します。一生。

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障害者福祉」カテゴリの記事

コメント

わかります、その気持ち。
私も、かわうそに過度な期待していますから。なんとかして、できることふやしたいなあ、と。

今日はかわうそくん連れて、リハビリに行ってきます。

投稿: かわうそ母ちゃん | 2010.10.08 08:00

私自身は、過度な期待というよりは、希望を抱くといった感じかなぁ…そうじゃなきゃいけないようにも思うし…それに、子供が何かしらの兆候を見せた時に、その先にあるかもしれない可能性を見出そうとすることの何がいけないのかと思うな。
私達みたいな仕事(あんまり仕事とは思ってないけど…)の立場でそうなんだから、親ならあって当然だと、私は思いますm(__)m

投稿: taka | 2010.10.08 13:12

かわうそ母ちゃんさん、

かわうそくんのリハビリ、
おつかれさまですー。

そうですよね。それが母の気持ち。

ずっと訓練を続けられるような、
医療環境が整うといいんですが。


takaさん、

母の希望って、第三者的視線からは
過度な期待に見られがちなんですよー。

もちろん行き過ぎちゃってる人もいるんで、
節度も大切なんですが^^;

本人と親と専門職と、
この三角形がなかなかきれいに整わない。

投稿: あたし | 2010.10.08 19:16

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