“戦闘配置”されず~肢体不自由児たちの学童疎開~
昨日の夜のETV特集。
太平洋戦争下における肢体不自由児の実態。
舞台は、日本で最初の肢体不自由児学校。
今の都立光明特別支援学校でした。
世田谷にある光明特別支援学校は、
日本で最初の肢体不自由児学校として、昭和7年に開校。
ちゃむさんの学校が今年で40周年だから、
光明はその2倍以上、80周年を過ぎてる!!
肢体不自由児の教育が義務化されたのは、昭和54年。
まだ35年しか経ってない。
ほんとうに先駆的というか、
どれだけ義務化まで時間がかかったのか、考えさせられる。
そんな状況での、あの戦争。
戦えない子どもたち。
足手まといな存在。
その子どもたちを守ろうとする、
先生たちまでが非難される時代。
校長先生があちこちにかけあって、
長野県への学童疎開を実現させたのです。
松本保平校長先生はじめ、
子どもたちに寄り添い続けた先生たちの存在。
学童疎開の目的って、
「子どもたちを空襲から守るため」だと普通に思ってた。
若い命を。大切にするためだと。
その先の目的まで、
考えたことがなかったなー。
学童疎開、そのものが戦闘配置だった。
未来の戦力として戦力の温存だったのか。
そんな理由から、
肢体不自由児は学童疎開の対象外だったわけで。
東京で死になさい、という意味でしょ。
光明ってね、当時から先駆的で。
勉強と治療をカリキュラムにしていて、
日常的にリハビリもしてたの。
看護師もいたらしい。
疎開先にもリハビリ器具を運んで、
先生たちが子どもたちを必死にケアしてた。
子どもたちを疎開させるために、
疎開先の確保、交渉、
リハビリ器具の運搬、
どのエピソードも、
当時のことを考えると、規格外。
疎開して10日後に世田谷の校舎が空襲で焼けてるので、
ほんとうにギリギリの状況だったことがわかる。
とにかく資料が残っていたのがすごい。
資料って、映像もたくさんあったようなのです。
番組のなかで、
当時の卒業生が、疎開先を訪れてました。
戦後69年。
実際の貴重な話を聞けるチャンスとしては、
もう最後なのかも。
もしもいま、この国に戦争が起こったら。
そんなことを考える8月。
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