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“戦闘配置”されず~肢体不自由児たちの学童疎開~

20140809

昨日の夜のETV特集
太平洋戦争下における肢体不自由児の実態。

舞台は、日本で最初の肢体不自由児学校。
今の都立光明特別支援学校でした。


世田谷にある光明特別支援学校は、
日本で最初の肢体不自由児学校として、昭和7年に開校。

ちゃむさんの学校が今年で40周年だから、
光明はその2倍以上、80周年を過ぎてる!!


肢体不自由児の教育が義務化されたのは、昭和54年。
まだ35年しか経ってない。

ほんとうに先駆的というか、
どれだけ義務化まで時間がかかったのか、考えさせられる。


そんな状況での、あの戦争。

戦えない子どもたち。
足手まといな存在。

その子どもたちを守ろうとする、
先生たちまでが非難される時代。


校長先生があちこちにかけあって、
長野県への学童疎開を実現させたのです。

松本保平校長先生はじめ、
子どもたちに寄り添い続けた先生たちの存在。


学童疎開の目的って、
「子どもたちを空襲から守るため」だと普通に思ってた。

若い命を。大切にするためだと。

その先の目的まで、
考えたことがなかったなー。

学童疎開、そのものが戦闘配置だった。
未来の戦力として戦力の温存だったのか。


そんな理由から、
肢体不自由児は学童疎開の対象外だったわけで。

東京で死になさい、という意味でしょ。


光明ってね、当時から先駆的で。

勉強と治療をカリキュラムにしていて、
日常的にリハビリもしてたの。
看護師もいたらしい。

疎開先にもリハビリ器具を運んで、
先生たちが子どもたちを必死にケアしてた。


子どもたちを疎開させるために、
疎開先の確保、交渉、
リハビリ器具の運搬、

どのエピソードも、
当時のことを考えると、規格外。

疎開して10日後に世田谷の校舎が空襲で焼けてるので、
ほんとうにギリギリの状況だったことがわかる。


とにかく資料が残っていたのがすごい。
資料って、映像もたくさんあったようなのです。

番組のなかで、
当時の卒業生が、疎開先を訪れてました。

戦後69年。

実際の貴重な話を聞けるチャンスとしては、
もう最後なのかも。


もしもいま、この国に戦争が起こったら。

そんなことを考える8月。


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